ロシアのことわざに学ぶ強い生き方
思考の整理
先日のエントリーで報告した通り、僕はお金絡みの関係で友人を失った。
この記事を書くことで自身の思考の整理を行ったのだが、数日の間、心にかかった霧のようなモヤモヤ感が晴れることはなかった。
今までの僕はプライベートで困り事があったとしても、周囲の人間に相談することは絶対にしなかった。
なぜなら、僕は自分の悩みや弱い部分を人に見せることは“恥ずかしいこと”だと思っていたからだ。
それに、僕のネガティブな話をされた立場の人間は、少なからずBadエピソードを聞く羽目になり、少なからず聞き手はアンハッピーな気持ちになると思っている。
だから、僕は仮に自身に問題が起きた時は、周囲に相談するという手法ではなく、ネットでその他大勢の意見を取り入れるという手法を取る。
その方が多くの情報を得ることができるし周囲の人にも迷惑がかからないと思っているからだ。
しかし、今回ばかりは周囲の人に相談してみた。
別に同調してほしいわけではない。
ただ単に、人間同士のトラブルは人間に相談した方が良い意見が得られると思ったからだ。
僕はそこで得られた意見は決して鵜呑みにしない。
一度、自身の内側で噛み砕いて、自身の考えと比較・検討を行ってから僕自身が判断を下す。
他人の意見を取り入れた結果
僕は複数の友人にこのエピソードを話し、下記のような意見が得られた。
・友情より目の前の女の子を取る人とは縁を切る。
・本当に信頼できる人じゃないとお金の貸し借りはしてはいけない。
・友人はその共通の友人(女性)が好きだったんじゃないの?
・ポジショントークする男はろくでもない。
・そもそもエピソードが幼稚。 等
話し手が僕だから、僕のことを擁護してくれているのかどうかはわからないが、やはり外から見ても友人の行為は理解しかねるものだったようだ。
周囲の人たちの客観的な意見のおかげで僕はようやく吹っ切れることができた。
結果的に、僕は一連のトラブルに関わる人、その他の登場人物との交友関係を全て絶った。
この際、共通の友人から僕に対するイメージダウンなどどうでも良くて、みんなと仲良く手を繋いで仲直りごっこをする方が無理だし不誠実だと思った。
この一連の出来事で学んだことは、「人はモノやカネの貸し借りをしていると無意識のうちに上下関係が生まれてしまう」ということだ。
人間はカネやモノを貸していると無意識のうちに自分の方が偉いと思ってしまう生き物で、その傲慢さはどうしても言葉尻や態度に顕れてしまう。
僕は身分や持ち物の差で人を見下したり軽蔑することはできない人間だったようだ。
だから、今回の出来事のように、自身の実力ではなく、人の褌で相撲を取るようなアンチ実力主義な人とは仲良くできないと結論付けた。
1on1で勝負できないのであれば、外野で野次でも何でも飛ばしているがいい。
仮にまだ解決方法があるとするのであれば、それは間違いなく「時間」だけだろう。
海外のことわざから見える国民性の違い
言語は文化の磁石で、ある民族の文化を反映していると言われる。
その中で、ことわざはある民族が長期に渡って民衆の生活経験によって発展してきた知恵の結晶である。
さらに、「国民性」とは人々の社会現象や行動様式に対する見方である。
ある民族の精神状態の参照としてのことわざは、ある側面からこの民族の国民性が謳われる。
日本では「呉越同舟」や「一蓮托生」ということわざがある通り、“和をもって尊しとなす”仲間意識が強く、連帯責任を重んじる風習のある国として知られている。
一方、これから紹介するロシアのことわざは、日本とはだいぶ変わった考え方、国民性が反映されている。
例えば、「飢えは叔母さんではないからピロシキをくれたりしない」というもの。
少し不思議な言い回しだが、このことわざには「困ったときは自分で解決しなさい」という意味だ。
このことわざ以外にもロシア人の自立した精神教育、屈強な気質がよく表されていることわざは多い。
一般的には、ロシア人とは極端な性質の持ち主が多いと考えられている。
ロシア独特の歴史的経緯の結果、戦争や騒乱等のトラブルが勃発すると、ロシア人ほど残虐で冷酷な仕打ちを平然と行える民族は珍しい。
僕の思考回路は割とロシア人寄りで「0か100か思考」に近い。
「0か100か思考」は「マイナス完璧主義者」のことを指し、やるならとことんやる、とことんできないなら、やらないほうがましという考えだ。
日本においては、発達障害の特徴とされていて迫害の対象になるが、僕はそんなものは気にしないで自分らしく生きていくと決めた。
僕に贈るロシアのことわざ集
ここからは個人的に気に入ったロシアのことわざを紹介する。
身の回りの人間関係やSNS疲れをしている人は一度読んで欲しい。
Москва слезам не верит
(モスクワは涙を信じない。)
⇒泣いても現実は変わらない。 泣き言で同情を買おうとしても無駄だ。
Брань на вороту не виснет.」
(悪口は襟首にぶら下がらない)
⇒悪口は無視してしまえば痛くも痒くもない。
他人が言う悪口などどうせ言葉だけ、襟首にぶら下がったりして邪魔したり重みを与えたりするものではないのだから気にするなということ。
Сколько утка ни бодрись, лебедем не быть.
(どんなに頑張ったところでアヒルは白鳥になれない。)
⇒氏素性は変えられないということ。
Дурака учить - что мертвого лечить
(バカにものを教えるのは、死んだ人間を治療するようなものだ。)
⇒バカにつける薬はない。バカは死ななきゃ治らないということ。
Если у тебя кривое лицо, не сердись на зеркало.
(自分の顔が歪んでいるなら鏡に腹を立てるな。)
⇒本当のことを指摘されたとき、指摘した相手に腹を立てるのは見当違いだ。事実がそうなんだから仕方ない。
Снявши голову, по волосам не плачут.
(頭を取ったら髪を惜しんで泣くな)
⇒起きてしまったことは悔やんでも仕方ないということ。
日本語では「覆水盆に返らず」の意味。
Собака лает — ветер носит, а караван идет.」
(犬が吠え、風が伝える。それでもキャラバンは進む。)
⇒他人の言うことを気にするな、中傷や噂なんて無視していい。
つまり、犬が吠えても風が吹いても、ただ前を見て進めということ。
Плохому танцору и яйца мешают.
(下手な踊り手は金玉まで邪魔をする。)
弘法筆を選ばず。上手な人は道具や周囲の環境に文句を言わないものだ。
下手なくせに言い訳ばかりするのは、踊りが下手な人物が自分の睾丸を理由にするように滑稽だということ。
Собаке собачья смерть.
(犬は犬死にするものだ。)
⇒ざまあみろ。お前にはそのような悪い結果がふさわしいということ。
Горе не море, выпьешь до дна.
(悲しみは海ではないから、すっかり飲み干してしまうことができる。)
⇒「いつまでもくよくよするな、時間が経てば忘れられる」ということ。
Пожалел волк кобылу, оставил хвост да гриву.
(馬を憐れんだ狼が、尻尾とたてがみだけ食べ残してやった。)
⇒同情しているふりだけしておいて、行動は残酷。うわべだけの同情ということ。
Утро вечера мудренее.
(朝は夕方より賢い)
⇒寝る前にいろいろ考えるな。
寝る前にあれこれ悩むより、とにかく一晩寝ればいい、翌朝もっといい考えが浮かぶはずということ。
Прощай ошибки чужим, но себе никогда.
(人の失敗は許してやれ、だが自分の失敗は許すな)
⇒他人の行動を見て、良いところは見習い、悪いところは改めよということ。
日本語でいうところの「人のふり見て我がふり直せ」。
まとめ
それぞれの国には代々伝わることわざが数多く存在するが、そのことわざを読み解いていくと、国の気質が面白いほどに見えてくる。
それぞれ一長一短のあることわざだが、考え方次第で物事はちがう方向に解釈されるものだ。
何もかも完璧にこなすことは容易いことではない。
しかし、日本では悪い評価をされる「マイナス完璧主義者=0」の人も考え方次第では、「プラス完璧主義者=100」に転がっていく可能性を孕んでいるのではないだろうか。
ことわざの解釈にも二面性があるように。