ロボットは涙を流さない
「ロボット」という言葉はチェコ語で強制労働を意味するrobota(ロボッタ)と、スロバキア語で労働者を意味するrobotnik(ロボトニーク)から作られた造語だ。
1920年にチェコスロバキアの小説家のカレルという人が発表した『R.U.R(ロッサム万能ロボット商会)』内で初めてこの言葉が使用された。
ロボットという単語が日本に普及したのはその3年後で、宇賀伊津緒がrobotを『人造人間』と訳した時点からだ。
そもそもロボットとは、起源に習うと、「人に代わって作業をするために作られた存在」、「人の姿を模して作られた存在」、「人の行動を模して作られた存在」のいずれかまたは複数が該当する存在であると捉えられている。
当初、ロボットの基本的な仕事は、ある程度の工程や手順を自動的かつ連続的に行うよう設定・設計し動かすもので、所謂単純作業をこなすための存在だった。
人間はより便利な世界の実現を目指し、ソフトウェアやハードウェアを駆使して性能を高めていき、ロボットは高度な作業をこなせるようになった。
さらに技術が発達すると、人間でもできないようなことをロボットはやってのけるようになった。
例えば数ミクロンの精度で鉄を研磨したり、何トンもある土砂を軽々と運んだりすることは人間には到底不可能だ。
ロボットの進化は僕ら人間に豊かな生活をもたらした。
あと何年かかるかわからないが、ロボットは人間の仕事を代わりに全部やってくれて、僕らは好きなことだけやっていればいいユートピア的な生活が待っているだろう。
ここで日本のアニメを振り返ってみると、人間は昔から2足歩行のロボットに対して強い憧れや期待を抱いていることがわかる。
特にドラえもん、アラレちゃん、鉄腕アトムなどに代表されるように、人間に程近い形をしていて特殊能力を持ったタイプのロボットたち。
また、マジンガーZ、鉄人28号、ガンダムなど、圧倒的なパワーで外的から身を守ってくれるロボットたち。
僕たちは彼らと共存する社会を“理想”としていて、日々多くのエンジニアやサイエンティストが研究を進めている。
現状、僕らの身の回りにいるロボットらしいロボットは、部屋の床を這いつくばっているお掃除ロボットの「ルンバ」や回転寿司屋の受付の横でうな垂れている「Pepperくん」くらいだ。
残念ながら、1番人間の形に近かったであろうPepperくんはコスパと性能の悪さで受付係から倉庫係へ降格させられてしまったが。
僕らがアニメで夢見ていた人間とロボットが共存する世界なんてそう簡単には実現しないのだと思うと少し悲しい。
しかし、形は違えど、僕らの生活の周りにはいろんなロボットが生活に溶け込んでいて、便利で理想的な生活をもたらしている。
携帯電話があるから物理的に離れていても会話ができるし、パソコンがあるから、手書きで手紙を書く必要もない。
しかも最近のロボットはAI(人工知能)を持ち、人間が具体的な指示を与えなくても、自身が勝手に判断し僕らの生活を支えてくれる。
また、既に彼らは人間の身体の内部までやってきていて、ペースメーカーは医者の代わりに脈拍を測定して、健康を維持してくれる。
でも、僕はロボットが社会の内側に入りすぎてしまうと少し危険なのではないかいう疑問もある。
僕らは“理想的なユートピア”を目指し、開発を進め過ぎた故に、ロボットは人間を凌駕している。
市場価値では人間よりロボットの方が高くなっているのは労働市場を見れば一目瞭然だろう。
人間は完全ではない。
心臓が止まれば死が訪れるし、いつまで経っても争いごとが絶えない愚かな生き物だ。
一方、頭脳を持ったロボットは定期的にメンテナンスさえ加えてやればずっと同じパフォーマンスを発揮する完璧な“生き物”だ。
もしかしたら、ロボットが成すことは全て理想的な行動になって、いずれ人間がオワコン化してしまう未来がやって来るかもしれない。
そして、人間の恋愛対象は人間から完璧なロボットに遷り、人間とロボットが恋に落ちる日だってそう遠くはない。
ロボットに対して負い目を感じた人間は何をするのかというと、「ロボットを倒す」という選択肢もあるのだろうが、おそらくその利便性を手放すという選択肢は捨てられない。
人間が抱える自身のコンプレックスとお別れするためには、「自らもロボットになること」しかないのではないだろうか。
僕らの身体はロボットに代替されてしまって、鉄でできた心臓、セラミックでできた皮膚、スーパーコンピューターの脳で動いていて、地上にはロボットしか残らない。
その先に待ち受ける未来は何なのか僕には全く検討もつかない。
なぜなら、僕は不完全な人間であって理想的な存在ではないただの人間だから。