銭湯の歴史を学んだら、「風呂ふるまいビジネス」を思いついた。
銭湯に行きたい。ちょっと寒いし。
夏の猛暑もつかの間、ここ何日かは少し肌寒い日が出てきた。
気温の低下により冷気がしんとして、鼻に抜ける空気はほのかに秋の香りがする。
夏物の服を衣装ケースにしまい、奥から秋物のロングTやジャケットを引っ張りだしてきて、僕たちはチェック柄やフードが付いた秋物の洋服たちとしばらく振りの再会を果たす。
少し寒い日は、自動販売機であたたか~いココアを飲んでみたり、自宅で生姜を使ったメニューを作り、暖かみを感じることで優しさというか、安心感のようなものを感じることができる。
指先が少し冷える感覚に鬱陶しさを感じていた僕は突然に思いついた。
「あ、銭湯に行こう。」と。
「思い立ったら吉日」という言葉があるように、シャンプー・タオルセットを引っさげて、弾丸のように飛び出した僕は、10分後にはすでに近所の銭湯の浴槽に浸かっていた。
銭湯の歴史
銭湯の下駄箱の木の鍵や、壁面に描かれた富士山を見る度に、昔の人もこの景色、この場所で息抜きをしていただろうかと想像する。
(純粋に儲かってなくて、設備投資するお金がない可能性もあるが。)
僕は昔の人の銭湯ライフと現代の銭湯業界について調べてみた。
先に言っておくが、銭湯の歴史に興味が無い人は次の章に飛んでほしい。
歴史のくだりだけでとんでもない文字数になってしまった。
※ちなみに、この記事の全体文字数は4500文字だ。
【6世紀~安土桃山時代】
日本の入浴文化は、6世紀に渡来した仏教の沐浴から始まった。
※沐浴(もくよく)は、からだを水で洗い潔めること。宗教的な儀式を指すことが多い。乳児の体を洗うことも含まれる。
仏教においては汚れを落とすことは、仏に仕える者のマナーであると、沐浴の功徳を説いたと言われ、多くの寺院で浴堂を構え施浴が行われたと言われている。
「温室教」という沐浴の功徳を説いた経文もある。
「温室教」に書いてある入浴に必要な七物として、燃火、浄水、澡豆、蘇膏、淳灰、楊枝、内衣の7つがあり、それらを整えると「七病を除き七福を得る」という教えもあり、寺院へ参詣する客を入浴させたとも言われている。
当時の家々には浴室がなく、町湯もなかった時代だ。
寺院の施浴は宗教的な意味だけでなく、庶民にとって、嬉しい施しであったので、入浴を目的として寺院へ足を運ぶ人も少なくなかったらしい。
【平安時代】
序々に施浴文化が庶民に定着し、やがて平安時代の末には京都に銭湯のはしりともいえる「湯屋」が登場した。
【鎌倉・室町時代】
施浴の習慣は、鎌倉時代が最も盛んだった。
この時代、お金持ちは自分でお風呂を持ち、貧乏な公家が町湯に入りに行ったということが言い伝えられている。
ただし、一般庶民は寺院での水浴びがメインだったので、彼らの髪はとても臭くて、虱がわいていたらしい。
『吾妻鏡』にはこの頃、源頼朝が鎌倉山で行なった100日間の施浴や、幕府が北条政子の供養に行なった長期間の施浴などが記載されている。
この時代においては施浴という行為には特別な意味があったのだ。
室町時代に入っても、幕府や寺院により施浴の習慣は受け継がれる。
施浴は「功徳風呂」と呼ばれ、一定の日にちを定めて庶民にも振舞われた。
この頃から、風呂のある家では人を招いて風呂をふるまい、浴後には茶の湯や、酒宴をひらく楽しい生活を送っていた。
これは「風呂ふるまい」と呼ばれ、一般庶民でもお金持ちの家は、近所の人に風呂を振舞った。
また、地方でも観音堂等にに信者が集まって風呂をわかし、浴後は持参の酒・さかなで宴会(「風呂講」が行なわれていた。
ちなみに、この時代は蒸し風呂(サウナ)がメインで、蒸気浴をした後、体にお湯をかける、という入り方をしていたらしい。
この他、温泉浴も行われていたが、どちらかと言うと治療の意味が強い。
【江戸時代】
お風呂文化は江戸時代に大きく変化した。
安土桃山時代の終わりに銭湯が出現して、銭湯が街中にも見られるようになるのは、江戸時代に入ってからだ。
江戸の銭瓶橋に伊勢与一という人が、湯屋を開業したのが銭湯の発祥とされ、お風呂文化は江戸時代に「湯」と「風呂」が混同し、銭湯ができたのだ。
この頃の風呂はまだ蒸し風呂が主流で、半身浴が中心。
内風呂はまだ上級武士しか許されていなかった。
しかし、江戸時代の初期になると、肩まで浸かる「据え風呂」が登場した。
この当時の風呂は、薪を燃やして風呂釜を直接温めるタイプの風呂が主流で、「鉄砲風呂」や「五右衛門風呂」はこの当時に出現した。
ちなみに、当初の入浴料は1文(現代の価値にして数十円)ほどだったようだ。
また、当時の風呂は混浴で、入り口は男女別々なのに、湯船は男も女も一緒という混浴がとても多くなっていた。
しかし、裸の男女が向かい合わせになればそういった事故も起きてしまうこともしばしばあり、混浴の風呂では性行為に及ぶものも少なからずいたようだ。
そうした風紀の乱れを危惧した幕府は、寛政の改革の中で混浴を禁止する旨のお触れを出した。
混浴が禁止されると、銭湯経営者は一日おきに男性の日、女性の日と分けて入浴させるようになったが、事業者の売上が減ってしまう為、湯船の上に板をはり、男女別々にして営業するようになった。
一応仕切りがあるため混浴ではないが、区切られているのは湯の上だけで、浴槽内には仕切りがないため、覗きは容易だったらしい。
結局、江戸時代を通じて混浴文化は明治維新までずっと続いていたのだ。
【明治時代以降】
明治時代になって、銭湯の様式は一変した。
屋根に湯気抜きが作られたり、浴槽と板流しを平面にしたり、洗い場もずっと広くなった「改良風呂」が評判になる。
後に、湯船の縁を少し高くして、汚れが入らない工夫もされる。
大正時代になると、さらに銭湯は近代化されて、板張りの洗い場や木造の浴槽は姿を消し、タイル張りになった。
そして、昭和時代には、戦後の高度成長期を向かえ、風呂付の団地が大量に建てられた。
この頃に今の内風呂が一般化した。
また、浴室の湯・水に水道式のカランが取り付けられ、衛生面も向上する。
そして現代に至るというわけだ。
現代の銭湯事情
上記のような時代背景があり、現代でも銭湯は街中にひっそりと佇んでいる。
しかし、昭和時代に各家庭に風呂が設置され始めて、わざわざ銭湯に行く意味などあるのか?という疑問が残る。
確かにたまには大きなお風呂に浸かりたいという気持ちはわかるが、その’たまに’の要素だけで果たしてこの時代にビジネスが成り立つのかは疑問だ。
おそらく「東京の銭湯の数は年々減少していて、利用者数も右肩下がりだ。」と銭湯業界が苦しいニュースを一度くらいは聞いたことがあると思う。
これについて、株式会社ヴィベアータ代表取締役 新田龍氏もビジネスジャーナルで言及しているが、銭湯業界には誰も知らないカラクリが存在したのだ。
銭湯が潰れない理由
街中にある銭湯がなぜかろうじて生き残っているのか。
日本には「公衆浴場法」という法律がある。
その中で「公衆浴場」は「一般公衆浴場」と「その他の公衆浴場」に分類されており、前者が「銭湯」と呼ばれる。
銭湯を営業するには施設の衛生基準や浴槽水の水質基準、入浴料金などの法律をクリアしなければならない。
近年は事業者も減っており、産業として衰退していることは事実だ。
しかし、業界内部においては、既得権益と規制に守られた「経営努力をしない組織」が温存され、その維持に対して多額の税金が投入されている。
都内の銭湯のうち約4分の3が、年間売り上げ2,000万円未満なのだ。
ここから地代や水道光熱費、人件費や機材メンテナンス費を差し引けば、半分残るかどうか、というところだ。(都内の銭湯における営業費割合はだいたい42~57%で推移)
優遇措置
銭湯事業者の生存戦略のミソは「料金減免」と「補助金」にある。
実は、銭湯の水道料金は実質無料で、さらに施設と土地の固定資産税はその3分の2が免除される。
つまり、お湯を沸かすための燃料代の負担があるとはいえ、仕入にほとんどお金がかからないため、極めて好条件でビジネスができているということだ。
東京都水道局のHPには公衆浴場用の水道料金と下水道料金が掲載されている。
見て分かる通り、基本料金自体が安い。
銭湯は11立方メートル以上はいくら使っても同109円なのである。
また基本料金にしても、銭湯はいくら口径が大きくとも、6,865円が上限だ。
既得権益の力
さらに、各自治体からの補助金が投入されるため、銭湯は実質無料で水道を使えるのだ。
460円(東京都)という価格統制を受け入れさせる代わりに、助成金を渡すという慣行が残った。
お金を渡す側は当然ながら利権を渡したくないし、事業者側も助成金はありがたい。
お互い持ちつ持たれつの関係が出来上がっている。
こうして銭湯業界は、さまざまな思惑が交錯する場と化している。
ビジネスの提案
風呂ふるまいビジネス
脱衣所のヒラ積みになっているエロ雑誌を読みながら思いついたのだが、銭湯事業はもっと水平展開できる事業だと思う。
僕が提案するのは、鎌倉・室町時代の文化であった「風呂ふるまい」を復活させるビジネスだ。
コンセプトは「銭湯の壁を乗り越えよう」だ。
男湯・女湯だけじゃなくて、「水着湯」というジャンルを新しく作る。
現状、水着湯は豊島園や箱根のユネッサンなどあるが、都心の近い水着湯はあまり多くない。
また、飲食スペースはフリードリンク制で、合コンができるようなスペースを設ければ、若年層や外国人にもウケると思う。
湯上りの若い男女が、浴衣姿でお酒飲んで合コンできたら楽しいに決まってるではないか。
場所は、東京駅の八重洲あたりにあるスーパー銭湯を潰して、そのような施設を作ったら、若いサラリーマンだけではなく、外国人旅行者にもウケそうだ。
ちなみに、僕が妄想しているこの新しいスタイルの銭湯は、公衆浴場法において「その他の公衆浴場」に分類される。
ここまで書いて思ったのだが、
てか、これってスパじゃね?
いや、一見同じように見えるが、既存の事業である宿泊要素やマッサージとは違うマーケットに身を置くことで、差別化が図れている(と思う)。
僕はもっとウェイ系銭湯を作りたいのだ。
なんなら合コン目的やインスタ映えだけのために作りたい。
皇居ランで知り合った男女がランニングで汗流して、お風呂でも汗流して、合コンで冷や汗かいて、ベッドの上でも汗流したら相当QOL高いと思う。
これからの銭湯
個人的にこれからの銭湯は、さらに深いコミュニティ化が求められると思う。
僕も行ったことがあるが、高円寺の小杉湯は定期的に音楽イベントを開催していたり、SNSを駆使して、常連さんだけでなく新規顧客の獲得に動いている。
何も銭湯を利用するのは地域住民だけではない。
皇居周辺やジム周辺など、一汗流したあとに軽く風呂でも入るか!といって利用する顧客は「銭湯の外」にコミュニティを持っている。
これからは銭湯外のコミュニティを取り込み、銭湯内で新しいコミュニティを形成できる場を提供することで、様々な目的の常連さんを増やすべきだと思う。
最近は、カフェスペースを併設したり、民泊施設の併設、外国人向けにバックヤードツアーや1日番頭体験など、銭湯そのものを目的地化するような試みが行われている。
「泊まれる本屋」で話題になった「BOOK AND BED TOKYO」なんてその代表格で、「本屋」マーケットにおいて「宿泊」という要素を取り入れて成功している。
本屋は、ただ単に本を売っているわけではないのだ。
書籍を置くだけで宣伝効果が得られるし、撮影スタジオとしての利用、近年はカフェバーを併設した本屋もある。
それらは「本屋」という部類に含まれるが、「銭湯」という部類の中にポジションをとることによって、副次的な価値が発揮されるのではないだろうか。
僕の「風呂ふるまいビジネス」は、銭湯という括りではなく、出会いビジネスの中に銭湯がある状態だと言える。
まとめ
最後にバカな妄想話をしてしまったが、日本のお風呂文化は決して絶やしてはいけない。
裸の付き合いとは人との距離を縮める効果があるらしいが、銭湯文化は国境を越えてもっと多くの人に知ってもらい、残していかなければいけない産業だと思う。
これまでの歴史の中で、風呂に入れる人に格差があったり、お風呂のルールが変わったり、様々な変化が生じてきた。
しかし、日本人はお風呂が好きということはどの時代も変わらなかった。
平成が終わる今こそ、僕ら若い時代にはこんなお風呂文化があったのだと後世に伝えなくてはならない。(だから銭湯で合コンしよう)
僕はドライヤー(3分間/20円)で頭を乾かしながらそんなことを考えていた