しょうじきしんどい

海老で鯛を釣ろうと思う。いや、海老はもったいないからミミズでいいや。

バッターボックスに立ち続けるということ

今日の朝、会社に向かうためにいつも通り池袋駅で乗換えをしようとした時にとある人物と遭遇した。

 

池袋駅は世界の乗降客数で世界2位を誇る超巨大ターミナル駅で、埼玉国の移民を受け入れるため今日もおびただしい数の人で溢れている。

 

その人混みの中でも僕の体内に組み込まれている人感センサーはいち早くそのなつかしい人の存在をキャッチして僕に知らせてくれた。

 

そのなつかしい人というのは、いつも僕を泣かせていたガキ大将だ。

 

そのガキ大将は近所の公園のすぐ横の家に住んでいるのだが、その公園はあたかも自分のものだと思い込んでいて、彼の許可無しに勝手に公園で遊んではいけないという謎のルールが存在した。

 

いじめられたエピソードの1つとして、僕がまだ小学校低学年の頃、そのルールを知らずに公園で友達とドッチボールをして遊んでいた時に因縁をつけてきた彼に髪の毛を引っ張られてボールを横取りされたことがある。

 

構図的にはドラえもんにそっくりで、ジャイアンにいじめられたのび太ドラえもんに泣きつくように、僕もドラえもんみたいなおばあちゃんに泣きついていた。

 

僕のおばあちゃんは便利な道具を出してくれるわけではなかったが、いつも僕の味方でいてくれた。

 

「うんうん。大変だったねえ」の一言に今まで何回救われてきたことか。

 

ある時、僕が何よりも大切にしていた遊戯王のブラックマジシャンが無くなっていることに気付いた。

 

カードが無くなる直前、僕は公園でガキ大将にデュエルを挑まれていた。

 

僕はブラックマジシャンという大エースのおかげでガキ大将をこてんぱんにやっつけたのだが、その直後にカードが無くなっていたので、カードの行方は明白だった。

 

ついでに付け加えると、そのブラックマジシャンは、おばあちゃんに近所のトイザらスに連れて行ってもらったときに購入して当てた代物だ。

 

僕が狂喜乱舞しているとき、おそらくおばあちゃんはそのカードの価値がわかっていなかったと思うのだが、はちゃめちゃに喜んでいる僕を見てただ「良かったねえ」と言っていた。

 

おばあちゃんはそんな大切なカードを盗まれてしまって落ち込んでいる僕を不憫に思ったのだろう。

 

いつもの「うんうん。大変だったねえ」の後に、「それじゃあ返してもらいに行こうか」という言葉を付け加えた。

 

そして、僕はおばあちゃんに手を引かれてガキ大将の家に向かった。

 

内心ガキ大将の家に行くのは怖いので、ブラックマジシャンなんて諦めた方が100倍マシだと思っていたが、おばあちゃんは歩みを止めなかった。

 

僕とおばあちゃんはガキ大将の家に到着して、インターホンを鳴らした。

 

たしかあの時はちょうど今くらいの秋ごろだったと思う。

 

ドアから出てきたガキ大将の表情、横でけたたましく鳴くバカな犬、後からでてきたガキ大将のお母さん。

 

あの時の情景は今でもはっきりと覚えている。

 

僕は緊張のあまり一言も発することはできず、おばあちゃんが何を話していたのかもわからないが、なぜか最終的に僕の手元にはブラックマジシャンが戻ってきていた。

 

家に帰ってきてから、おばあちゃんは最後に「よかったねえ」とだけ言ってくれた。

 

それだけならよかったのだが、おばあちゃんはおもむろにマジックペンを取り出し、カードの裏面にしっかりと僕の名前を書いてくれた。

 

名前のおかげでカードの残存価格は限りなく0円に近づいてしまったが、僕はそのカードにもっと大きな価値を感じていて、必ずデッキに組み込んでいた。

 

ちなみに、そのカードは思い出の品として今でも大切に僕の引き出しの中に保管してある。

 

あの時からだいたい15年くらい経っているので、ガキ大将は僕のことなんて覚えていないだろうなんて思いながら、駅のホームで彼のことをぼんやりと見ていた。

 

顔はだいぶ大人びているものの若干昔の面影は残っていて上記のエピソードを思い出した次第だ。

 

僕は未だに彼に対する恐怖心のようなものを少し感じていたが、今となっては僕の方が身長は高いし、着ているスーツの質も断然こっちの方が上だという余裕のようものもあった。

 

僕は自分の人生と他人の人生を比べる考え方は好きではないけど、たいした学歴もなくて、ヨレヨレのスーツを着てスマホでソシャゲをしているような人よりかは僕の方が圧倒的に良い生活をしていると思う。

 

でも、果たして本当に僕の方が彼より上にいるのだろうか。

 

というか、そもそも社会に上とか下とか存在するのだろうか。

 

僕がいじめられたように、小学生の世界では頃は足が早いとか、ケンカが強いとか、ゲームが強いとか、ほとんどが1円にもならないことで上下関係ができる。

 

でも、社会人の世界では年収だとか、立派なビジネスをしているとか、社会のために役に立っているかとか多用な軸で優劣をつける。

 

さらに、これらの軸が相互に関連し合い、複合的な観点で優劣をつけているので、絶対的な正解を測ることができるものさしなど存在しない。

 

ただ、1つだけ確実に正解だと言える事がある。

 

それは、社会の変化に順応できなかった者はやがて滅びるということだ。

 

この原則は白亜紀に恐竜が地上を支配していた頃から現代まで全ての生物に共通している。

 

きっと人間の社会も例外は無くて、過去にどれだけカーストが上だったとしても、取り残されてしまった時点で未来には滅亡しかない。

 

取り残された人たちは実際に命は取られはしないと思うが、将来的に金銭面で生きにくい生活を強いられるだろう。

 

マルクスの「資本論」では経済的に生きにくい人=貧乏人とされていて、その定義は自分の肉体以外に生産手段を持たない人のことを指す。

 

そういった意味では、綺麗なスーツを着ていようが、ヨレヨレのスーツを着ていようが、一流サッカー選手だろうが、資本家に雇われている以上、みんな同じ貧乏人であり本質は変わらない。

 

しかし、日本では大学受験や就職活動など人生の節目で一発逆転のホームランを打てる機会を与えられるルールがある。

 

そこでヒットを打とうが、空振り三振だろうが、結局は資本主義経済の下では打席に立っている時点で貧乏人確定だ。

 

本当の勝者はバッターボックスにもベンチにもいなくて、きっと観客席から僕らのことを見ていると思う。

 

では、今現在バッターボックスに立っている僕らは観客席には一生行けないのだろうか。

 

いや、そんなことはない。

 

観客席でぼくらのことを見ている人たちは、元々観客席にいたわけではなくて、過去にバッターボックスに立っていて、そこで圧倒的な結果を出したから、観客席にいるのだ。

 

Google検索で、「日本 億万長者」と検索すればわかると思うが、ほとんどの人たちは過去に血が滲むほどの努力をしている。

 

もう1つ共通しているのは、そこでしっかりバッターボックスに立っていることだ。

 

社会に出て日々をなんとなく過ごしていると、やがてバッターボックスに立つことすら諦めるようになってしまい、貧乏人路線が確定する。

 

それを回避する為には何度もバッターボックスに立って、試行錯誤を繰り返していくしかない。

  

それでも結果がふるわなければ、働く場所を変えればいいと思う。

 

僕も昨晩にちょうど第二新卒向けの転職支援サービスで転職相談をしてきて新しい一歩を踏み出し始めたところだ。

 

いずれにせよ、誰かと比較して満足感を得ているような人生なんてろくでもないし、その思考回路が既に貧乏人路線まっしぐらだ。

 

だから、僕は比較する人生から卒業して、自分の好きなことや興味のあること、社会のためになることを頑張る。

 

そして、結果的にありがとうという言葉がもらえたらそれだけで幸せなのだと思う。

 

僕は丸の内線のホームでそんなことを考えながら、今日も電車に揺られている。