ジワタネホを目指して
映画を見るということ
ジワタネホはメキシコ南部に位置し太平洋に面した小さな街だ。
メキシコでは太平洋のことを“The sea has no memory(記憶のない海)”と呼ぶらしい。
その由来は、かつてムー大陸が存在していたが沈没してしまい全ての記憶・歴史を失くしたからという説や、海はあまりに広く一切の信条や記憶を持たないという説などがある。
海が持つ記憶についてどの説が正しいのかはさておき、通常地球上の生物は脳やDNAを媒体として記憶を留める。
そして、生物が肉体の終わりを迎えて種の情報を失わないように生物は子孫を残す。
人間は子孫を残す他に文字、写真、PC、クラウドなど様々な外部媒体を使用して記憶を保存するという方法を持つ希少な生き物だ。
記憶の保存方法の中で「映画」も1つの保存方法で、文字と写真だけでは表現することができない情報を動画として切り取り、繋ぎ合わせることで、それを見た人々は印象的なシーンとして脳に刻み、学ぶことができる。
これまで世界では約100万本以上の映画が作られてきたが、そのほとんどは映画館での上映のみならず、DVD、BD、ネット配信等デジタル技術という魔法を使うことでいつでもどこでも見ることができるようになった。
おまけに、陳列棚にあいうえお順に並んだ多くの映画(記憶)は、たった100円程度のお金を支払えば、アクション映画も、世紀のラブストーリーも、人類の愚かな歴史も、いとも簡単に手に入れることができる。
つまり、映画を見るということは記憶を学ぶということなのだ。
仮に地球上から人間が滅びて別の種が地球を支配したとしても、それらの記憶媒体を通じて人間はたしかにここにいたのだという“命の残り香”を後世に伝える必要がある。
だから、人々が映像作品の中で動き続け記憶を後世に伝え続ける限り本当の意味で人は死なない。
フィルムが残っている限り人類は永遠に死なないのだ。
そして、人間が伝えるべきは、人間が信じてきたものや大切だと思ったものだ。
その真偽性はさほど重要ではなくて、正しいと信じる想いこそ未来を創る。
未来を創ることと、過去を語り伝えることはきっと同義だと思うから。
ショーシャンクの空に
先日、久しぶりに「ショーシャンクの空に」を見た。
ちなみに、この記事の冒頭に出てくるジワタネホはこの映画のロケ地で使用され、海が良く見える綺麗な場所だ。
「ショーシャンクの空に」は1994年にアメリカで公開された映画で、第67回アカデミー賞7部門にノミネートされたものの1つも受賞できず、大きな興行収入を得ることはなかった作品だ。
当時は脚光を浴びなかった作品だったが、後に再評価され日本では当初からいくつもの外国映画ベストテン選出で1位となり,興行的にもヒットした。
この映画の詳しい内容は省略するが、この映画のテーマは「Hope(希望)」だ。
誰かが言っていたセリフで、「人は二度死ぬ」という言葉がある。
1回目の死は肉体の死を迎えたとき。
2回目の死は人々の記憶から忘れ去られたときだ。
個人的に、人間には他にも死ぬ場合があると思っていて、それは「生きることを諦めたとき」だと思う。
無期懲役という判決を受けて人生の殆どを刑務所内で過ごす羽目になったデュフレーン。
仮に僕が彼だったとしたら、果たして生きようとするだろうか。
いや、おそらく死のうと思うだろう。
普通、無期懲役を食らった人間に希望などあるはずない。
デュフレーンの親友であるレッドは、「刑務所に持ち込んではいけないものは“希望”だ。」と言っていた。
それでも“無罪の罪”で収監されたデュフレーンは他の罪人とは違い、苦境の中でも最後まで希望を捨てなかった。
ただでさえ刑務所という場所は不遇な目に遭いやすく一筋の希望も諦めない場所というのが常だ。
しかし、そんな場所でもデュフレーンの目は最後まで死んではいなかった。
本作では彼のそんな強い生き様が描かれている。
最後にデュフレーンはこんな言葉を残す。
「希望は素晴らしい
何にも替え難い
希望は永遠の命だ」
その言葉に刺激を受けたレッドも前向きになった。
「必死に生きるか、必死に死ぬか…俺は生きるぞ。」と。
刑務所問題という社会問題について言及する側面を持ち合わせつつ、逆境の中で人生の素晴らしさについて改めて考えさせれる本作は不朽の名作と言える。
是非とも見てほしい。